目覚めると昨日までの梅雨空がウソのような快晴だった。
いよいよ始まる旅への興奮もあるが、とうとう始まるという不安も大きい。
ボクは遍路を始めるため、昨日徳島の大鶴旅館に泊まったのである。
窓をあけると徳島のランドマーク、眉山が見えた。
空の青と山の緑のコントラストが強すぎて、どこかニセモノっぽく現実味がない。
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いつ遍路になる?
そういえば「遍路」っていつどのタイミングで「遍路」になるのだろう。
誰かがスタートの笛を吹くでもない、進行係がいて背中を押すでもない。
四国にきたものの遍路になった自覚はまだない。
朝メシをいただく。
他に宿泊客はおらず、女将さんが話し相手になってくれた。
30年ほど前の徳島はビル建設ラッシュで、工事関係者の宿泊で忙しかったこと、遍路道は17番札所の井戸寺をすぎるといったん徳島市内へ戻るようになっていること、大抵の人はそれが5日目になること、女将さんも遍路を回ったこと、そんな話をしてくれた。
初めての「お接待」
出発のとき、当たり前のようにおにぎりを持たせてくれた。
話には聞いていたけどこれが「お接待」というやつか。
「お接待」とは遍路に対する無償の施しのこと。
この先も数限りなく「お接待」を受けながらボクは旅することになる。
玄関を出て振り返ると眉山が見えた。
相変わらず現実味はないが、とてもきれいでボクは眉山を好きになった。
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八十八ヶ所のふりだし1番霊山寺、その最寄りのJR板東駅で下車してみて拍子抜けた。
閑散としていて、ボクのような遍路になりきれていない者が奮起する材料が何も見当たらない。
1番霊山寺へ
イメージでは1番霊山寺までは賑やかな参道みたいになっていて、右に左に遍路用品店、土産物屋、メシ屋、どさくさの雑貨店などが軒を連ねていると思っていた。
駅を出るや「お、兄ちゃん今日からかー?」だの「もう白衣(びゃくえ)買うたかー?」だの声がかかり、担がれた神輿みたく1番霊山寺に辿り着くのかなあと、なんとなくそう思ってた。
遠く蝉時雨のなか、ボクはしまりのないまま長い旅の一歩を踏み出した。
1番霊山寺の山門をくぐる。
境内に売店があって、遍路グッズが並んでる。
遍路はドラクエの勇者よろしくここでアイテムを揃えて旅立つのだ。
ガチの遍路ルックではなくルーズにいきたかったので、とりあえず納経張(朱印帳)と白衣を買った。
社務所の方に「お杖は?」と聞かれる。
後に知るが杖って実はメチャクチャ重要なアイテムなのだ。
「必要になったらどっかで買いますー」なんて答えてたら、黙ってボクの顔を覗きこみ「では、お杖はお接待します」と新品の杖を下さった。
日常がフェードアウトする
境内のベンチで白衣をひろげるもなかなか袖を通せない。
人が多く、遍路になる瞬間を見られるのが恥ずかしいのだ。
人の引いたのを見計らってサッと白衣を羽織り、モゴモゴと口の中で般若心経を読んだ。
ろうそくも線香も焚かず作法的にはかなりはしょったが、ともあれ記念すべき1番札所を打ち終えた。
2番極楽寺へ向かっていると、おばちゃんがチャリをUターンさせながら「頑張りやー」と声をかけてくれる。
前方に停車していたクルマから待ち構えていたようにおじさんが下りてきて、新しく開業した遍路宿のチラシを渡される。
本人の自覚の有無にかかわらず、まわりがボクを遍路と認め始める。
日常がスーッとフェードアウトし、代わりに遍路という非日常がフェードインしてくるのが感じられた。
3番金泉寺の境内で40代くらいの遍路と会った。
快晴なのに雨避けのレッグカバーを履いている。
昨日88番を打って結願し、1番札所まで歩く途中だという。
自分の歩いた四国一周の円を閉じるため、そのようにする遍路がいると聞いたことがある。
デカいザックに銀マットをくくり付けていたのでおそらく野宿遍路である。
昨日の雨の中結願し、レッグカバーも脱がずに野で眠ったのかも知れない。
3番金泉寺の納経所で今日梅雨明けしたことを知らされた。
お接待で小箱を手渡される。中は菓子だろうか。
箱にかかった熨斗にはこの4ヶ月前に起こった東日本大震災の復興を祈る一文があり、「お参りのときには被害に遭われた方々へのお祈りもお願いします」と言われた。
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荷物が重い
4番大日寺までは上りでこれまでより少し距離がある。
そろそろザックの重さが堪えてきた。腰のベルトが食い込んで痛い。
たまらずザックを下ろして道端にへたり込む。
こんなんでこの先大丈夫かと不安になる。
そろそろ今夜の寝床を意識する時間帯である。
宿はとっておらず、野宿を考えている。
4番大日寺の納経所で、どこか近くにテントを張れる場所がないか尋ねてみた。
実はここの駐車場で野宿した人のブログを見ていたので、同じように許可がもらえるかもと期待したのだが教えてくれたのは近くの東屋だった。
5番地蔵寺でも同様に尋ねる。
テントを張れる場所はわからないと言われた。
時間はまもなく17時。
どの寺も納経所は17時に閉まるので今日はここで打ち止めである。
「納経」とは寺の本堂と大師堂で般若心経を唱えることであり、「納経所」は納経張に有料で朱印を記入してもらう所である。
ボクも初日からスムーズに野宿ができるとは思っていない。
近くに善根宿がある。今夜はそちらにお世話になろう。
「善根宿」というのは歩き遍路を無料、もしくは格安で泊めてくれる宿である。
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善根宿に泊まる
溝渕工務店さんの敷地内にあるプレハブ小屋、ここに泊まれるようだ。
ザックを下ろして室内を見回す。
広さ6畳ほど、扇風機2台、ソファに山積みの毛布、壁一面にはここを訪れた遍路が礼として貼った納め札。
管理費の300円(2011年当時)を缶に入れる。
日没までにやるべきことがある。風呂と洗濯である。
敷地内にはトイレと洗面所、ホースもあった。
サンダルと海パン一丁になり水浴びをする。石鹸で全身を洗う。
女子高生がチャリで通過する。
視線を感じてこちらが見ると目をそらす、でもまた振り返り訝しげに見ている。
吹っ切れたボクは石鹸を泡立てると海パンの中も勢いよく洗った。
洗面所に水を溜めて、今日着ていた服を石鹸で洗濯した。
洗濯、すすぎ、脱水まですべて手作業なのでとても時間がかかる。
と、クルマが停車し、男性が善根宿を覗きこんでいた。
ピンときて挨拶してみればやはり、管理人の溝渕さんだった。
宿泊者がいるか確認に来ているらしい。
洗礼
最後にメシの調達である。1日の終わりのホッとできる時間。
近くのローソンで弁当とビールを買い、イートイン席で食う。
隣の席でパンを頬張っているおじさんがいる。
おじさんは床に落ちた何かをしきりに拾っている。
いったい何を?ふと足下を見ればそれはゲジゲジだった。
おじさんの拾いそこねたのがまだその辺に散らばっている。
ゲジゲジを握りしめたグーを胸前に突き出す格好で、おじさんおもむろに外へ出た。
駐車場でグーをパーにしてゲジゲジをばらまくのが見えた。
弛緩しかけていた神経に再び緊張が走る。虫は大の苦手である。
そもそも何が起こったらローソンに大量のゲジゲジがいるのだ。
おじさんが釣り餌として持っていたのを誤ってぶちまけたのか。
野宿遍路をするのだから望まぬ出会いが避けられないことは覚悟していたが、まさか初日から洗礼を受けるとは思いもよらなかった。
善根宿に戻り、ソファに積まれた毛布の上に横たわる。
ゲジゲジの残像に悩まされた。
電気も寝床も扇風機もあってとても快適なんだが、この夜ボクはひどく惨めな気持ちになり落ち込んだ。
扇風機を1台は自分に、もう1台は洗濯物へ向ける。
壁の納め札が風にはためく。
眠れるだろうかと心配したが、知らぬ間に眠っていた。