それぞれの朝
朝6時。
階下の食堂に下りたら美人遍路が朝メシを食い、玉の汗遍路はすでに出発し、イシイくんはまだ寝ているらしい。
素泊まりのボクにご主人はおにぎりをお接待してくれた。
三原村の山越えはいくつかルートがあるが、距離の一番短い県道21号をご主人は行けという。
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一つ目の信号を左折して橋を渡ると教えられたのに見過ごして、かなり行き過ぎてしまった。
戻るのもなあと次の橋まで歩いたらかなり遠回りになった。
今日は1人で歩きたかった。
不協和音
イシイくんと美人遍路の3人で歩けば、ボクはまた勝手に不機嫌になるだろう。
人が集まれば気遣いが必要になる、政治が生まれる、社会的な振る舞いが求められる。
ボクはそうした場にうまくチューニングを合わすことができない。
小学1年の家庭訪問で先生に「人の輪に入っていけないところがある」と言われて以来そのままだ。
美人遍路に対する微かな嫌悪感は、もしかするとそんな自分を正当化する卑怯な言い訳なのかも知れない。
便意クライシス
ようやく県道21号に入った。2人の姿が見えないことにホッとした。
便意を催した。今朝宿で済ませたのにと舌打ちする。
県道21号はすぐ山間に入る。公衆トイレなどあるだろうか。
今見えている景色の中で野糞をするシミュレーションをしてみる。
民家の戸をたたくこともやぶさかでない。
便意がアッパーだ。ノー野糞記録もここまでか。
しかし野糞してる最中に美人遍路に追いつかれて、米倉涼子口調で「大丈夫なのぉ」とか言われたらボクはもう人ではいられないだろう。
芳井集落にある遍路小屋を過ぎたところにある神社に奇跡的にトイレがあった。
助かった。
ここでイシイくんと美人遍路に追いつかれた。
神社のベンチで3人で休む格好となる。
相変わらず美人遍路はよくしゃべった。
ボクとイシイくんの写真を撮ってもいいかと言う。一緒に歩いているボクらを娘さんにも見せたいのだという。
ボクは不機嫌を隠せなかった。イシイくんはそれに気づいているようだった。
ボクはうつむいて眉間にシワを寄せた表情で写真に収まった。
いたたまれなくなって先に立ち上がった。
「サングラス忘れてますよ」と手渡してくれたイシイくんからほとんど引ったくるようにして歩き始めた。
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アキレスのかかと
三原村でまた追いつかれた。
ボクは2人に追いつかれまいと朝からずっと早足だった。その無理がたたったのか右脚のアキレス腱が痛む。
美人遍路に追い抜かれる。杖を脇に収めてスタスタと歩いていく。
直射日光の当たる場所でばあさん遍路が座り込んでいた。かなりの高齢のようだが大丈夫だろうか。
中筋川ダムの管理棟があった。休憩所ではないのでベンチもトイレもない。
そこで美人遍路が休憩していた。また追い抜かれるのもけったくそ悪いのでボクも離れた場所に腰を下ろした。
遅れてイシイくんもさらに離れた場所に座った。
先ほどのばあさん遍路はトイレがないと知ると素通りしていった。
まず美人遍路が出発し、ほどなくイシイくんも出発した。
ボクは安宿のご主人のアドバイスに従って、靴ひもを上の2穴だけに通し直した。右アキレス腱の痛みがひどくなってきた。
山を下り土佐くろしお鉄道の平田駅前に出た。
コンビニのスリーエフで美人遍路が地元のおじさんと談笑しているのが見えた。
悪い後味
高知県最後の札所、39番延光寺を打つ。
ここでイシイくん、美人遍路と合流するかたちとなった。
美人遍路はこの近くで宿を取っているという。
ボクとイシイくんは先へ行くと言うと「じゃあ、ここでお別れだね」と言って握手を求めてきた。
間の悪いことにこのとき美人遍路はボクの名前を少し言い間違えた。
アキレス腱の痛みがヤバいことになっていたボクは、苛立ちを隠さないまま力なく握手をした。
美人遍路とはそれきり会わなかった。
遍路を終えて大阪に帰って冷静になってから、悪いことをしたと後悔した。
詫びたくてイシイくんに美人遍路の連絡先を聞いてみたが、イシイくんも連絡先交換はしていなかった。
本物の女優?
美人遍路は東京から来ていてサトウさんといった。名前出しの許可は取れていないが、日本一多い姓であるから問題はなかろう。
そもそも偽名ではないかと思っている。
というのは、「わたしは女優です」というあのジョーク。あれはジョークにカモフラージュした事実なのではないか。
あの尋常ならざる美貌は、実は本物の女優さんだったのではないかとボクは思っている。
もしあのときのサトウさんがこれを読んで下さったならば、是非ともご一報いただけるとうれしい。
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激痛
39番延光寺の門前に「O旅館」の看板があった。
電話番号もあったので予約の電話を入れた。素泊まり3700円。
右アキレス腱の激痛に脚を引きずって歩く。
宿毛市街の宿まで7km。まあ3時間あれば着くだろう。
幸いまだ時間は早かった。
座れる場所を見つけては座って休み休みの牛歩で行こう。
宿替え
宿毛市街に入る手前でイシイくんが追いついてきた。
イシイくんが「今日は仕掛けます」と言った。「仕掛ける」は彼の言い方で「攻める」という意味だ。
宿毛市街に入ったところでおばさんに声を掛けられた。
「どこへ泊まるの?」、「O旅館ってとこです」
「いくら?」、「3700円です」
「もっと安いとこ紹介してあげよか?」、「え、ほんまですか?」
おばさんは「ちょっと電話してくる」と言いどこかへ消えた。
イシイくんは県境を越えてここから10km以上ある愛媛の一本松温泉まで行くという。
時間は17時だ。本気で仕掛けるつもりらしい。
5分ほどして先程のおばさんが戻ってきた。すぐ近くの米屋旅館で素泊まり3000円で泊まれるよう手配してくれた。
イシイくんと別れて米屋旅館へ向かう。旅館のご主人は話は聞いてると招き入れてくれた。
UFOと聖水
O旅館には申し訳なかったがキャンセルの電話を入れた。
宿から近いヤマガタフードセンターというスーパーでメシを調達。
明日は愛媛県への山越えである。右アキレス腱の痛みが不安だ。
今ボクにできることと言えば早寝くらいだが、それで乗り切れるかは甚だ不安である。