聖人に見えるあの方も、リアルに屁もするクソもする!

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以前ツイッターでこんな投稿をみかけた。

通学路で見守りをしてくれている近所のお爺さん。

子供に挨拶をするのだが、挨拶を返さなかった子に対しては返すまで大声で挨拶を投げかける人がいる。

挨拶の押し付けは迷惑だ。

子供にだって機嫌の悪いときがあるのだから。

うろ覚えだが、だいたいこのような趣旨だったと記憶している。

皆さんはどのようにお感じになるか。

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たしかに「老人の信念を押し付けて、無理やり挨拶を返させている」と受け取ることはできるし、実際そういう方もいらっしゃるだろう。

でもそれってその老人が聖人ってことが前提じゃない?

率先して挨拶して無視されたところで、子供にイラっとしたりしないという。

つまりボクが思うに、老人は無視されてシンプルにイラっときただけだと思う。

「っじゃ、このガキャア」と。

「しっかり挨拶せんかこのダボ!」という怒気を含んだ挨拶のつぶてを投げつけ、相手を組み伏せたかったのだろう。

これは挨拶の押し付けなんかではなく、単なる老人の自尊心である。

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というかそもそもこのツイート主は、機嫌が悪いときは挨拶しなくてよいという教育方針なのだろうか。

それは快く挨拶してくれる人に対して、機嫌の悪さの押し付けにはならないか。

嫌な気分を伝播させることにならないか。

通学路で旗を振って見守りをしてくれる年輩者というのは、無条件で人格者に見えるもの。

しかしながら老人も俗物。

機嫌の良し悪しがあるし、子供の嬌声が耳に障ることもあろうし、風呂に入らない夜だってある。

挨拶を無視されて、心の静寂を保てるならそれは聖人である。

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昨今の著名人やインフルエンサーへのSNS上での口撃についてもおなじような傾向がある。

礼儀正しく品行方正、ファンやフォロワーに滅法優しい人格者。

という勝手にこしらえた偶像から、少しでも逸脱すれば口撃の対象となる。

「言ってることが違う」、「ファン(フォロワー)への説明が足りない」、「幻滅した」、はたまた「詐欺だ金返せ」。

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自分のこしらえた偶像と一致しなければ離脱すればいいものを執着してしまう。

生産性のないこうした行動をギャンブルでスるようにスッカラカンになるまで続けようとするのだ。

あなたの偶像の中のあの人だって、朝起きたら口臭いし、街中でシレッと流しっ屁するし、チヤホヤされたいし、金銭欲だって肉欲だってハンパない。

ボクやあなたと同じである。

そんな偶像、ガソリンぶっかけ火つけちまえ。

そうしたら許せることって、世の中たくさんあるよ。

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