レストインピース、阿木譲さん。そのデスマスクは何色だったろう。

2018年10月に阿木譲さんが亡くなった。

現中高年のコアな音楽ファンの間では、伝説の音楽誌ロックマガジンの編集者として知られる氏。

ボク個人としては、90年代はじめに大阪にあったクラブM2の首謀者、DJ AGIとしての氏である。

突然の訃報

Twitterに突然流れた訃報。

M2でもDJされていたHAYATOさんのツイートだった。

阿木チルドレンの末席から

波乱万丈な氏のことゆえ誤報ではとソースの出所を探しまくっていたら、阿木さんが最後に運営していたイベントスペースenvironment 0gのアカウントが公式にその死を伝えた。

阿木チルドレンの末席にいる身として、なにかしらの弔辞を述べたくここに作文する。

異常にエクスクルーシブだったクラブM2

大阪島之内にあったクラブM2(Mathematic Modern)は異常にエクスクルーシブなクラブだった。

出入り口は閉ざされており、インターフォンを推すと全身ヨージ・ヤマモトのコスチュームに身を包んだ黒づくめの美女がのぞき窓から客を品定めし、そのお眼鏡に叶った者だけが入店を許されたのである。

90年代大阪のユースカルチャー

90年代のはじめ頃の大阪のユースカルチャーは、音楽やファッションの嗜好によってトライブ(部族)が厳然と分類されていた。

遊び場やレコード屋はトライブごとにテリトリーがあったのである。

M2の黒い美女

まれにMLBやNBAのユニフォームをフィーチャーしたダボダボのヒップホップファッションでM2のインターフォンを押すKY者があったが、黒い美女はにべもなく入店を断った。

このM2に、まだ酒も呑めずマダファカ童貞だった18歳のボクはハマりにハマったのである。

土曜日の夜になれば早くあの空間に身を投じたく、電車を降りるとダッシュでM2へむかった。

コマ送りのカブキ者たち

防音扉を入るとまず恐いくらいの闇、続いて雷光のようなフラッシュライト、饐えた匂いのするスモークマシン、爆音で鳴り響くヒステリックなハードコアテクノ/ジャングル/ガバ、フラッシュの中でコマ送りのように踊るカブいた人たち。

M2では阿木さんが編集するフリーペーパーが配布され、そこには最先端のテクノの12inchが紹介されていて、帰りの始発電車で貪るように読んだものである。

ボクが「ボク」と表記する理由

フリーペーパーの文中で阿木さんは一人称をカタカナで「ボク」としており、小生ガタリがこのブログで一人称を「ボク」とするのはここに由来している。

ロックはダサい

阿木さんはかつてロックマガジンを編集していたにもかかわらず、M2期にはロックを徹底的に否定し、ダサいものとしていた。

印象的な文章がある。

出典が手元にないので記憶を頼りに書くとつまりこうだ。

「ドン」と「ドン」の間

ハウスやテクノのキック音「ドン、ドン、ドン、ドン」は「ドン」と「ドン」の間にこそ秘教があり、ダンスする際は「ドン」と「ドン」の間で着地して、「ドン」のときは宙にいるべきであるというもの。

「ドン」で着地するのはロックなのだと。

あれから数十年、ボクは今でも音楽に身を委ねるとき「ドン」で宙に浮くクセが抜けない。

Cafe Blueオープン

M2を閉めた阿木さんは、難波湊町にCafe Blueをオープンした。

噂では聞いていたがネットもSNSもないその頃、場所を特定するのに苦労した。

そのころのボクはターンテーブル、DJミキサー、そして百数十枚のレコードを所有しており、ここでDJさせてほしいと申し出た。

黒い美女、ミカさんは快諾してくれた。

無邪気でワガママな暴君

ボクがCafe Blueに在籍したのはほんの数ヶ月ほど。

毎週金曜、土曜の夜にレコードを持って行きDJをし、朝5時で閉店すれば皆で24h食堂で飯を食って帰った。

オープン前に音割れがあったりすると阿木さんはPA担当をグーで殴った。

今ならパワハラも甚だしい。

反面、興がのってくるとB2B (バックトゥバック、DJが交代で1枚ずつレコードをかける遊び)やろうぜと誘ってくるような憎めなさがある。

で、ボクが調子に乗ってYMOのコズミックサーフィンをかけると「細野は好きじゃない」とぷいとどこかへ言ってしまう子供じみたところがある。

ロックマガジン時代の思い出話

ロックマガジンをやっていたころの思い出話をしてくれることもあった。

セックスピストルズのジョニー・ロットンをインタビューしたときは恐かった。

殺気がみなぎってていつ殴られるかひやひやしたよと、少年のように語った。

ブライアン・イーノは国内盤のライナーノーツを阿木さんが執筆していることもあり、来日するときは俺のところに一番に連絡がくるんだ、と自慢げに語ることもあった。

阿木さんを知る人が愛憎をもって語るのは、エキセントリックだけどどこか憎めない、彼のこうしたキャラクターからだろう。

阿木さんがCafe Blueを休んだ夜

Cafe Blueをやっていたころの阿木さんはすでにハードテクノを否定し、次世代のデトロイトテクノやその後のインテリジェントテクノへ興味は以降しつつあった。

ボクがCafe Blue在籍中、阿木さんは1度だけお店を休んだことがあった。

親父さんが亡くなったためだ。

親父さんのデスマスク

この翌週に発行されたフリーペーパーが手元に残っており、その一文がまさに阿木節なので全文引用する。

個人的な話で恐縮だが、先月の末に父が他界した。

葬儀の朝にみた父のテス・マスク(原文ママ)は真っ白で、そのときにボクの心に溢れたチル・アウトな感情はドラッグ体験したときのバッド・トリップしたあの感情とよく似たものだった。

父はとても寒そうだった。

それは言葉では言い表せないどこか尖った柔らかさのまるでない寒さだ。

ドラッグ体験というのは生きながら死をみることだとボクは自分の体験上確信しているが、最近のアンビエント・ハウスやサイケデリック・テクノの音響は、おそらく後1年もしないで電子象徴主義的な死の音響へと変わっていくだろう。

60年代の西海岸文化に影響されたボクは、71年にサンフランシスコへ渡った。

そこでのヒッピー的生活とドラッグによる死の体験によってボクの世界観はすべて変容してしまった。

この世界にはほんとに多くの人間が住んでいる。

だけど地下鉄で隣り合ったひととキミが同じ世界に住んでいるとは限らない。

目の前の机の上のリンゴを二人のひとが見つめていたとしても、その目の前のリンゴは決して同じリンゴではない。

ボクはこのカフェ・ブルーやM2や、また雑誌メディアなどの活動を通した運動の中で欲しいのは同じ世界観や価値観を持ったひととなにか創造していきたいだけなんだ。

ホント、それだけのことなんだ。

この世界の真実、リアリティーをもしみたのならサラリーマンなどでは絶対といっていいほど生きていけないものなんだ。

それでもサラリーマンしているひとは、みんな誤魔化して生きてるだけなんだ。

あのボクの体験した70年代の息吹がまた世界を取り巻いている。

さて、キミはまだサラリーマンになるために大学に通っているのかい。

それでもいいけど、よく目を凝らしてこの世界を見つめてごらん。

きっとキミの信じているものすべてが壊れていく時が迫っている。

M2時代から阿木さんは「変容」という言葉を多用し、過去はおろか現在をも一貫して否定してきた。

希望は未来にのみあり、変化流転こそが生。

それ以外は死同然なのだと、阿木さんは警告する。

ご冥福をお祈りします。

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